TOP>>文献・書籍等>>日本社会で生きるということ

世間学に関する文献・書籍等です。


阿部謹也 『日本社会で生きるということ』 朝日新聞社

阿部謹也 19990325 『日本社会で生きるということ』 朝日新聞社 210p.
  1400+税 ISBN:4-02-257356-2  [amazon] /[bk1]

〈目次〉

「世間」と日本人――新しい差別論のために
なぜ「世間」をとりあげるのか
「世間」というネットワーク
「世間」の機能
個人としての生きにくさ
「世間」なしには成り立たない日本社会
「穢れ」を生む「世間」
「神判」というもの
「聖俗」未分離の日本
「世間」の対象化のために
差別を新たな視点で

「世間」とは何か
建前と本音
ヨーロッパとの違い
ヨーロッパにも「世間」はあった
「世間」という人間関係
「公共性」とは何か
大学も「世間」
「人権」をめぐって
「他人」とは何か
「社会」との関係
「差別」というもの
能力主義と「世間」のはざまで
建前をこえるために

差別とは何か
日本とヨーロッパ
ヨーロッパ中世に存在した被差別民
ヨーロッパ中世のコスモロジー
ヨーロッパ的な空間
大宇宙と小宇宙
ヨーロッパの宇宙観の大前提
大宇宙と小宇宙の関係
キリスト教の普及と蔑視のはじまり
神々の退場と都市化
日本の部落差別について
日本は平等社会だったのか

公衆衛生と「世間」
自然科学と人文社会科学
中世ヨーロッパの身体観と宇宙観
個人の誕生
都市と個人
日本の都市と衛生管理
公共性の東と西
「世間」と公共性
吉茂遺訓

日本の教育に欠けているもの
日本の近代化の特徴とは
形成過程によって決まる
「世間を騒がせる」という言葉
「建前」だけの教育
「建前」の世界で
「やる気」から生まれる力

あとがき


p4
なぜ「世間」をとりあげるのか
ヨーロッパの人間と人間の関係の在り方が、日本の人間と人間の在り方と違うということに気づいたということがあります。
そういう違いがなぜ起こったのか、文明と違い、文化の違いというものは、最終的には人と人の関係の違いに行き着くと思うわけですが、その違いがなぜ起こったのかという素朴な疑問が浮かび、それ以後その問題を中心にして、中世の研究に向かっていったという事情があるわけです。


p10
「人権問題」という問題が存在するのではなくて、個々の人名を冠した問題が存在するんだ、と。「人権問題」に関して反対の人は一人もいないというのは何の意味もないことなのであって、個々の名前を冠した個々人の問題ですね、個々人の
人の名前がついている問題に関しては全員の合意がえられるのだろうかというと、それは不可能だと思うのです。


p43
「世間」の対象化のために
では、どうするか、ということについて、私は特に、今答えを持っているわけではありませんが、大事なことは、今申し上げたような、私たちを拘束している、あるいは私たちを生かしている「世間」というものの実態を知ることだと思います。自分はどういう「世間」に生きているのか。 略 
したがって、私たちは、ヨーロッパ流の「個人意識」を追及することを、もうやめた方がよろしいと思っているんですね。
ヨーロッパ流の「個人意識」が、日本でもあるかのごとき幻想が、未だにはびこっておるわけですが、実際は、ヨーロッパ流の「個人」というものを、日本で実現するには千年のタイムラグがあり、状況の違いもあります。それよりも、日本の今の「世間」のなかにある「個人」というものが、「世間」と「個」との領域を、もう少しうまく設定しながら、「個」の領域を広げていく。
「世間」の解体を、多少はもたらすわけですが、「個」の領域を広げていく必要があるだろう、と思うんですね。そうしませんと、いろんな面でこれからの国際社会ではやっていけない。


p45
日本にくる外国人が、まず直面するのはその問題で、日本の「世間」というものが理解できませんので、「個人」と「世間」の関係が見えないということがあるわけです。自分がどういう「世間」にいるのか、ということをもし理解することが出来れば、ものを見る目が違ってくると思うのですが、私は、学者とか評論家とかいう人にそういうことを言っても、たぶん理解してもらえないと思っています。自分の「世間」の外を見たことが無いわけですから。
自分が生まれ育ってきた生活のなかで、自分がどういう「世間」に縛られているのか、あるいはどういう「世間」によっていかされているのか、ということに目を向けて、気づいた時に初めてその人は、いわば広い世界のなかにいる自分に気付づくわけですが。
そういうことがわかる人は少ないかもしれませんが、一般的には「世間」を少し広げよう、つまり外国人も含めて考えよう、外国人も入れるような「世間」を作ってみようということに、たぶんなるんだろうと思うんですが、その前に私たちが、「世間」というものを対象化するということが大事だと思います、

P52
建前と本音
人権啓発ということでお話をするわけですが、これは大変難しい問題だと思うのです。どうしてかというと、日常生活のなかで私たちは人権という言葉をあまり使いません。人権という言葉は、ある意味で建前でありまして、例えば、自民党の議員であれ共産党の議員であれ、政治家であれそうでない人でも、人権問題に対して反対だという人は一人もいないと思います。少なくとも言葉のうえで反対であるということを言う人は一人もいません。しかし、永山則夫氏でもいいし宮崎勉君でも誰でもいいのですが、世に犯罪者とみなされている人あるいは・・・
日本の社会の中にあって、私たちがそのなかに浸って、われわれがそれを疑問に思わずに、多少疑問に思ってもそのとこを認めて暮らしている生活の枠というものがあって、それとかかわるからです。

P54
明治17年頃には、個人という言葉が始めて日本語に登場しました。それ以前には社会という言葉も個人という言葉もなかったのですが、明治10年に社会という言葉が生まれ、明治17年にindividualの訳語として個人という言葉が生まれました。
ということは、それ以前には個人もいなかったというふうに言えるのかどうかが問題です。

☆P82-8.3-84

P93
ところが、ヨーロッパから入ってきた社会という概念をヨーロッパの学問で分析している人はどうするかというと、
日本には個人がいるという前提で分析します。・・・

P96
若い人たちは性急に「世間」を解体しないといけないといいますが、私はそうは思いません。「世間」を解体することは難しいと思います。  むしろ、「世間」というものをもう少し意識してなかから変えていく必要がある。・・・

能力主義と「世間」のはざまで
P99-100

P102
能力も特になくて個性もなくて、社会のなかで「世間」と相容れずに暮らす道、これもあることはありますが、これは相当苦しい道です。///
教養とは一人ひとりが社会とどのような関係を結んでいるかを常に自覚して行動している状態を言うのであって、知識ではないのです。

P122
日本人は喜怒哀楽を非常に率直に表します。・・・
ところがヨーロッパの人々は、これは後でお話しすることと関連しますが、子供の頃からそういうふうにならないように努力している。つまり、躾けられる。社会的な躾けなんですね。そうしないと大人になれない。

P130
例えば日本の場合ですと、大学1年生が二年生に対して先輩といいます。そしてその間には先輩後輩の関係が成立します。何年に入社したかということが会社のなかで重きを持ちます。これは日本ではみんなが知っているところですね。ということは日本のなかには年を経たものの方が重みを持つということがあります。これはヨーロッパでは千年前に消えてしまった考えです。

P142
それには色々な場合があります。その教師が非常に素直で正直な人であればその生徒の能力を生かそうというふうに努力するでしょう・・・
それよりももっと大事なことは親が子供を一個の人間として認めるということ、だと思うのです。ところがそういう考え方は日本には少ないのです。

P145
無断で相手の60センチ以内に侵入することは絶対にいけないことだというのがヨーロッパの個人の基本条件です。


P148
日本は平等社会だったのか
人は皆平等です。人類皆兄弟なんで恥ずかしげもなく言うわけです。しかしそれは嘘なんです。。。。それは、個々の人がつくっている「世間」という人間関係が極めて排他的で差別的だということに示されています。


P150
これは被差別部落対そうでない人々の関係ではなくて、一般の人々の間、教師と学生の間、学生同士の間にある「世間」の差別的、排他的性格のゆえに個が自立しえないことに原因を持っていると考えられます。
このような状況をどのようにして打開してゆくかといえば、先ず教育のなかで自己改革が全面的に行われなければいけなしし、今までのような人権教育は必ずしも十分とはいえないのではないでしょうか。


P176
基本的にはヨーロッパ的な観念を用いて教育が行われたのです。そのなかで個人という言葉が教えられて、そこで個人の生き方について教師は、個性は大事なものだ。したがって、一生自分の信念を守って社会がどうんなに抵抗しようともただしいと思った道をいけということを教えたわけです。
これは基本的には建前でしかない教えで、そのために日本の子供たちは大変苦労して今日に至っているわけです。
私たちが使っている「世間」という言葉は、自分が現在関係を持っている人々と、今後関係を持つかもしれない人々の全体をさすものであって、それ以外のものではないと思われます。
この「世間」という、関係の世界に自己が深くかかわっていて、いわばその網の目の一つに自己もなっているような関係です。「世間」はいわば有機的な結びつきを持ったものであって、そのなかの一つの網目をなしているのが自己であり、その自己が「世間」を変えるなどということは考えられない。

P178
明治以降、わが国はヨーロッパを範として教育制度を整備してきましたから、ヨーロッパ的な個人の観念も生まれていますが、それは本質的には不十分なものです。インテリ諸公のなかには日本の個人はまだ不十分であり、したがって個人を確立しなければならないと簡単におっしゃる人がいますが、個人の確立とはどういうことを意味するのかということを突き詰めて考えますと、一つの線はヨーロッパ的な個人をつくてということになります。
私はそれは不可能だと思っています。不可能という意味は、ヨーロッパでは先ほどいいましたように12世紀頃から個人が生まれ、これは最終的にはキリスト教というものを根底に置いている。そこに関わっている様々な伝承などはルターの時代に古代的なものを全部払拭されて個人と神とのかかわりのなかで個人の位置が絶対化されていくという経験を経て、それが世俗化されて今日の個人になっているわけです。


P179
そういう意味ではヨーロッパ的な教育を受けながら日本人はそれを建前としてしか受け止めてこなかった。
私個人の経験から言いましても、中学校の教師は、例えば卒業の時には社会に出たら色々な問題があるだろう、しかし自分の信念を持って最後まで貫いて戦えなんで言ったわけです。
私はそういうことはよういえませんので、・・・・


P182
その「世間」は個人の生き方を最終的に裁く場となっています。日本人は今でも常に「世間」がどう見るかを気にしながら生きているのです。ここで重要なことはその「世間」にものや場がかかわっているということです。


P185
現在、私たちは「世間」という観念を相対化しなければならない状況にあります。「世間」のなかに個が縛られている状況を脱却しなければいけないと私は考えていますが、しかしそれと同時に「世間」が持っていたかつての公共的機能を失うことなく保持することができるかどうかも大問題です。


P190
つまり夫婦関係も含めて人間関係の細部については従来のままにしておき、その他の部分を近代化しようとしたのです。しかし、当然そこで大きな問題にぶつかってしまします。・・・そのため、日本人はアメリカと違いすぐに裁判に訴えるということをしません。裁判に訴えても自分たちの希望通りにはならないということをはっきり知っているからです。・・・小中高の教科書ではどう扱われてきたかというと、これはあまり疑問もなく、ヨーロッパ的な意味での個人が大事だ、個人の個性を尊重せよという掛け声がずっと続いてきまして、今でもそうです。

P194
したがって、私たちは常に自分の立場というものを考え、それに即して話をするという習慣があります。それと同時に本音の部分があります。

P200
つまり私たちは「坊ちゃん」に肩入れするあまり「野太鼓」とか「赤シャツ」を見ていなかった。つまりあれはごく普通の教師像、ごく一般の人々であり、・・・
日本の教育の根本問題は、全体が建前だということにあります。例えば人権問題一つとってみても、人権問題を大切にするという点では誰も反対はしません。右から左まで全員が賛成です。しかし具体的に人名をかかげた運動は非常に少数者の運動になってしまいます。
人権という建前だけがかかげられているのです。


P202
例えば集合写真を撮るときに、日本中どこの写真屋さんに行っても、一番前に座っている人に、「手を軽く握ってください」といいます。これは不思議なことです。つまり前の方の人は全員こぶしを握り、そしてズボンの裾があがっていないようにする。つまり形を非常に気にしているのです。